「こんな作業でも成長の糧になる」と言い訳しはじめたらご臨終のスタートライン

高等学校などの古文や漢文の授業が、果たして生徒に対して有益かどうかがよく議論される。
そういう場になると、こういうことを言うナンセンスな人が必ず出てくる。
「漢文や古文も人生で役に立たないということはない。だから教え続けるべき。」
古文や漢文を教えることがナンセンスかどうかは置いておいて、この言い草自体はまったくのナンセンスだと思う。
なぜかというと、まず、学校で教える内容が生徒の人生のどこかで役に立つのは当たり前で、もっと極端に言えば何を教えても『人生で役に立たないということはない』からだ。
では何を生徒たちが学ぶべきかといえば、『古文漢文より役に立つ事物』である。古文、漢文は役に立つのは当たり前だが、それより役に立つ勉強をするべき。(再三繰り返すけれども、別に古文漢文学習の妥当性を問題にしているのではない。)
そしてまた、こういうことになると、「役に立つとはどういうことだ?定義しろ。」という奴がでてくるんだが、それはもうどうでもいいとして、強調したいのは、くだらないことでも成長の糧になると信じることのアホらしさ。
たとえば、プログラマーが書類の文書をコピーしてどこか別のセルにペーストしつづけることに成長があるだろうか。あるといえるかもしれない。しかし、それは重要だろうか?いいや、重要じゃない。むしろ頭を愚鈍にさせているとも言える。もっと大切な勉強をする機会を奪っているともいえる。
私としては、『くだらない作業の繰り返しでも成長につながる』という宗教よりは、『効果的な勉強(学習)こそが豊かさをもたらす』、というストライクを打つ宗教に入りたい。

「こんな作業でも成長の糧になる」と言い訳すべきとき

  • どうしてもやらなくてはいけない取るに足らない下らない作業のときの諦め言葉
  • 学習計画を緻密に立てるべきだったが、緻密に立てるにはやる気がわかず、鬱から来る怠惰に諦めをうちつつ、人生を楽観するときの言葉

『役に立つ勉強』の定義

何が学ぶ者にとって役に立つかといえば、それは学ぶ者によって変わる、というのが無難な答え。