憲法9条と聖書

私は非常に慇懃無礼で、公序良俗に欠け、驚くほど浅はかな輩で、下賎で、穢れた、血液不足の酸欠愚者であるからして、憲法9条教の人々と宗教に熱心に仕える人々に共通点を見出してしまう。

共通点というのは、どちらも『始まり』を異常なほどありがたがっているということだ。メッカとか原典とか聖書とか、そういう『中心的なモノ』に対するコンプレックスというか。

私が思うに、憲法も聖書も、通常の仕事と同じように期限付きで、人間の限られた頭で作られたように思える。
というか、あんな文学的なものに、それ以上の出来のものがあるか。下手すると徹夜続きで至らないところがいろいろあったかもしれない。*1

さて、これを世の中にパブリッシュしてしまったからさあ大変。

適当に書いた『妥協だらけの変な共通ライブラリ』がいつのまにか、他人の手に渡って、『もっと変な共通ライブラリ』かつ『それを使わないと何かまずいことがあるのではないかライブラリ』に変化したように、あなたが適当に作ったプロトタイプやスクリプトがいつのまにかプロジェクトの中で大きな存在になっていたりすることがあったように、

このブサイクな文学もいつのまにか中心的コンプレックス信者によって信奉の対象となり、今日では絶対不問の教義として有り難がられるようになってしまった。

これを『聖典現象』と呼ぼう。

断っておくが、私は、思わず酔いが醒めるほど醜悪で、手紙に枕詞も季語もおかず、気立ては悪く、毎日生理中の女性の顔のようで、射精中の男性の顔のようであり、バターご飯を肯定できる不躾な、Javaで匿名クラスを好んで使い、VBAXPathを使うような、味噌汁を昨日腐らせた変態であるからして、とにかくそういうくだらないものであるから、中心・中央が大切な者たちは、このような私のくだらない戯言に腹を立ててはならない。

↑以上要約:『○○は有り難いに違いない』、はキケン

*1:ソースなし。