それは悪徳なのだろうか

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やら、そこのブログのエントリやら読んでいると、どうやら日本人労働者が自分の待遇の悪さに気づかず、それどころか経営者にとって都合のいい行動しかしない可哀相な奴隷たち、ということが分かる。

たとえば、定時帰りをする人間を恨む文化は暗く日本の企業に根付いている。定時帰りを悪徳と叫び、従業員同士でけん制しあっている。

仕事に手を抜く奴は悪徳、朝遅く来るものは悪徳、怠惰は悪徳、一流でもないのに待遇の改善を訴えるものは悪徳、周囲に遠慮しない奴は悪徳…

たまにこういう社畜の法におどろくほど従順な人がいて、そういう人と話すとすごくびっくりする。彼らは道徳や良心を守っていると考えているから、何か機会が無い限りそれ以外の価値観を認めることは無い。彼らにとっての、自分のルール外は悪徳である。

ぜんぜん関係無いが、似た例として、洗濯機で雑巾を洗うかどうか、ということについても「洗わない」と主張する人たちは、それこそが道徳だと主張する。(気になる人はググッてみよう。)

またまたぜんぜん関係ないが、ゼノギアスというゲームでは、刻印という生物学的操作があり、民間人は全てその刻印にかかっている。刻印にかかった人間は、支配者層に畏敬を感じるようになり、身体の能力を束縛されるようになる。人類を効率よく支配するためのツールなのだ。社蓄もこの刻印に似たようなものだろう。*1

またまた全く関係ないが、ディアスポラという小説では、デジタル世界に自我を持つ人類が、自己の価値観をソフトウェアによって自由に書き換えられるようになっている。ピーマンが嫌いならピーマンを好きになるように、自分の意思で自由に書き換えることが出来る。だから、幸福の尺度も思いのまま。

私たちの善悪はそれほど揺れやすく、他者との価値観の違いに悩む時でさえ揺れやすい基準が根底にあるということをよく考えなければならない。個人の価値観は社会のばら撒いた価値観に毛が生えているに過ぎない。ダウンロードしたEmacsをちょっとカスタマイズしたに過ぎない。トレンドだ。

で、何がいいたいかというと、他人と違うことをやっているときに、悪徳を感じるような小心者は胸を張れってこと!

*1:社畜(家畜)に神はいない!はファイナルファンタジータクティクスでしたっけ